筆遊

日記,勉強や読書(再読含)の記録,アニメ感想等.

今日読んだもの

 今朝は上記の本から第一章「ドゥルーズと存在の一義性」(pp. 20–67)を読んだ.わたしはこの本を何度か読んでいるのだけれど,毎度よく理解できないでいる.今回も読み直してみたはいいものの,やはり難しくてかなりの程度わからなかった.とはいえ,終わりの部分,ドゥンス・スコトゥスの〈此(これ)性 haecceitas〉をめぐる,──さらに,それを扱う英国詩人ホプキンズの一節をめぐる──,次のところには大変感銘を受けた(尤も,理解が問題になるところで「感銘」なのかよ,と言われると困るのだけれど).

ホプキンズにおいても,〈此性〉は,世界に一つだけの花を作り出すオリジナルな独自性の素なのではない.人間を構成するいかなる要素も共通なものである.概念規定の内にあるものは総て共通なものであり,いくら積み重ねても唯一者は得られない.概念規定の集積によって唯一者を得ようとすることは,可能的個体を考えれば,すぐに阻まれる.逆に言えば,可能性の次元を考えれば,世界に唯一なる太陽も月も普遍なのである.(pp. 62–63)

最後の「世界に唯一なる太陽も月も普遍」というはなしは,アヴィセンナの第三の普遍(p. 47)のことである.すぐに気づかれるように「世界に一つだけ」「世界に唯一」という言い回しがかなめになっている.これでいわれるのは,著者が次の段落で即座にいいかえるように,「現実における唯一者」のことである.〈此性〉とは,そういうもののことではない,といわれる.

 こう考えてみることができるかもしれない.これをこれたらしめるのは,これにこれのかけがえのなさを与えるのは,これなる事物にそなわる概念規定(ratio, λόγος)ではない.概念規定は概念規定である限り,可能的には,これにかぎらず,あらゆるものに述定されうる.月はこの世に一個しかない.太陽とておなじこと.それでも,月性や太陽性のような概念規定を何がしか考えてみるならば,そうした概念規定をもつ複数の太陽や複数の月が可能的にはあっても何らおかしくない.このかぎり,太陽にせよ月にせよ普遍である.

 ほぼ繰り返しになるけれど,これをこれたらしめるのは,──ふつうそう考えられているだろうように──,概念規定,○○性,何かそういうとくべつの性質のようなものではない.この人をこの人であると決定づけるのは,どこそこの出身であることとか,勉強ができることとか,運動ができないこととか,絵が上手いこととか,そうした性質の為せる業ではない.それは〈此性〉のつかさどることである.

 いうところの〈此性〉とは,では,何なのだろう.こういう疑問に行き着く.著者によれば,それは「人格や実体の一部を構成する性質や特質ではなく,全体でしかない」(p. 62).ふうむ.むずかしい,むずかしい,というばかりではよくないけれど,やはりむずかしい.